こんにちは。放射線などについて分かりやすく解説している大地(だいち)です。
こちらの記事に続き、私が旅する中で実際に体験してきた、放射線を巡る欧州の利用実態や環境修復の取組についてレポートしたいと思います。
第1回のバート・ガシュタイン、第2回のバート・シュレーマに続き、第3回は、チェコ北西部にある町で、鉱山から湧き出すラドンを豊富に含む鉱山水(ラドン水)を利用した放射線療法で知られるヤーヒモフ(Jáchymov。ドイツ語名はJoachimsthal。)についてご紹介したいと思います。
ヤーヒモフは、16世紀に良質な銀の産出と銀貨(ターラー)の鋳造によって繁栄し、第二次世界大戦後には政治犯らが強制労働に従事したウラン採掘という悲劇も経験した町です。
現在は、その負の歴史を伝える一方で、環境修復が行われ、またラドン水を利用した療養の復活による再生を遂げた保養地としても知られています。
つまり、今回は、
・ ヤーヒモフってどんな町なの?
・ ヤーヒモフにおける銀やウラン採掘の歴史って?
・ ヤーヒモフではどのように環境修復がなされたの?
・ ヤーヒモフの学習トレイルって何?
こういった疑問に答えます。
○本記事の内容
- (欧州放射線現地レポート)ヤーヒモフにおける鉱山開発・環境修復・放射線利用
- はじめに
- 旅程とルート
- ヤーヒモフについて
- 銀鉱山とヤーヒモフの繁栄
- 銀採掘の歴史
- 王立造幣局博物館
- ラジウムの発見、ウラン採掘と強制労働
- ラジウムの発見とウラン採掘の歴史
- 政治犯等による強制労働
- 採掘終了後の環境修復について
- 鉱山施設と鉱山廃石堆積場
- 環境修復の考え方と実施主体
- 現在の土地利用
- ラドン水を利用した療養
- ラドン療養地としての発展
- スヴォルノスト鉱山と鉱山水
- ラジウム・パレス
- アストリア見学坑道
- アグリコラ温泉施設
- 学習トレイル(ラドン・トレイル)について
- 学習トレイル(ラドン・トレイル)とは
- みどころ① 聖ヨアヒム教会
- みどころ② スヴォルノスト鉱山
- みどころ③ ヨゼフ坑
- みどころ④ 諸聖人病院教会
- 学習トレイル(ヤーヒモフの地獄)について
- 学習トレイル(ヤーヒモフの地獄)とは
- みどころ① 第一坑道
- みどころ② スヴォルノスト強制収容所・恐怖の階段(マウトハウゼン階段)
- みどころ③ 旧市営池
- みどころ④ ニコライ強制収容所
- みどころ⑤ ヤーヒモフの森
- みどころ⑥ エドゥアルト鉱山
- みどころ⑦ ハインツ池
- まとめ
この記事を書いている私は、2011年の福島第一原子力発電所の事故の後、除染や中間貯蔵施設の管理など、継続して放射線の分野での業務に従事してきました。
その間、働きながら大学院に通い(いわゆる社会人ドクター)、放射線の分野で博士号を取得しました。
こういった私が、解説していきます。
(欧州放射線現地レポート)ヤーヒモフにおける鉱山開発・環境修復・放射線利用
まず、旅の基本情報についてお伝えした後、ヤーヒモフの歴史、ヤーヒモフにおける環境修復の取組、2つの学習トレイルについて解説していきます。
はじめに
ヤーヒモフについては、当初は全く知らなかったのですが、インターネットを使って、放射線の利用や環境修復について現地で体験できる場所を探していたところ、欧州にある代表的な場所として挙げられていました。
また、他の場所に比べるとウィーンからのアクセスもまだ比較的良好だったこと、また、カルロヴィ・ヴァリという、有名な温泉保養地も近くにあることから、今回訪問することにしました。
ヤーヒモフからの帰路の途中で、約20km離れたこのカルロヴィ・ヴァリも訪れましたが、こちらの伝統的な療養の中心はラドンではなく、高温のミネラル泉を利用した飲泉療法です。
同じ西ボヘミアでも、温泉資源の利用方法は大きく異なるのが印象的でした。
旅程とルート
-1024x576.jpg)
(プラハ、カルロヴィ・ヴァリ、ヤーヒモフなどの大まかな位置関係。正確な位置については別途地図等でご確認ください。この地図はAIで作ったもので、ヤーヒモフが湖に囲まれているように見えますが、実際にはこのような大きな湖は現地にはありません。)
今回の旅程とルートは以下の通りです。
5月28日(木)
・早朝にウィーンを出発。ウィーン中央駅から、4時間程でプラハ中央駅に到着。
・プラハ駅中央駅で地下鉄に乗り換え、バスステーションへ。高速バスに乗り換え、2時間ほどでカルロヴィ・ヴァリに到着。
・カルロヴィ・ヴァリでバスに乗り換え、1時間ほどでヤーヒモフに到着。
・ホテル(ラジウム・パレス)に到着後、歩いてヤーヒモフの中心街へ。王立造幣局博物館を訪れた後、学習トレイル(ラドン・トレイル)を散策してホテルへ。
・ヤーヒモフ泊。

(プラハ中央駅)

(カルロヴィ・ヴァリ下駅前のバスステーション)
5月29日(金)
・学習トレイル(ヤーヒモフの地獄)を4~5時間かけて散策。
・散策後、ホテル近くのアストリア見学坑道を訪問。また、その向かいにある温泉保養施設であるアグリコラに数時間滞在。
・ヤーヒモフ泊。
5月30日(土)
・ヤーヒモフを後にして、カルロヴィ・ヴァリへ。荷物を駅で預けて、カルロヴィ・ヴァリの町を数時間散策。
・カルロヴィ・ヴァリから高速バスで2時間ほどでプラハのバスターミナルへ。さらに地下鉄を乗り継いでプラハ中央駅へ。
・プラハ中央駅から電車で4時間ほどでウィーン中央駅へ。

(プラハのバスステーション(写真は行きに撮影したもの))
ヤーヒモフについて
ヤーヒモフは、チェコ北西部のエルツ山地に位置する人口約2,300人の小さな町です。
16世紀に銀鉱山の発見によって栄え、その後、銀鉱山から産出したピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)は、マリ・キュリーらによるラジウムの発見につながったほか、世界初のラドン温泉療養地の一つとして発展してきました。
一方で、第二次世界大戦後にはウラン採掘が本格化し、強制労働収容所が設けられるなど、町は冷戦期の歴史とも深く関わりました。
現在では、鉱山跡地の環境修復が進められるとともに、鉱山遺産はユネスコ世界遺産「エルツ山地/クルシュネホジー鉱山地域」の構成資産として保存・活用されています。
町の銀鉱山としての繁栄、ラジウムの発見、ウラン鉱山の採掘と強制労働、環境修復の取組、放射線(主にラドン水)の利用、実際に歩いてきた学習トレイルについて順に紹介していきます。
銀鉱山とヤーヒモフの繁栄
次に、ヤーヒモフにおける銀採掘とその繁栄の歴史について見ていきましょう。
銀採掘の歴史
ヤーヒモフの歴史は、16世紀初頭の銀鉱山の発見から始まります。
1516年頃、この地域で豊富な銀鉱脈が発見されると、町は急速に発展しました。
当時、この地域は神聖ローマ帝国のボヘミア王国に属していましたが、鉱山開発に伴ってザクセン地方などから多くのドイツ語話者が移住したため、町ではドイツ語が広く用いられ、町は「ザンクト・ヨアヒムスタール(Sankt Joachimsthal、「聖ヨアヒムの谷」の意)」と呼ばれていました。
1519年には、この地で産出された銀を用いて「ヨアヒムスターラー(Joachimsthaler)」と呼ばれる大型銀貨の鋳造が始まりました。
この銀貨はヨーロッパ各地で広く流通し、その名称は後に「ターラー(Thaler)」へと変化しました。
さらに、スペイン領アメリカで広く流通した「スペイン・ドル(Spanish Dollar)」もターラー銀貨の影響を受けており、これがアメリカ独立後にアメリカ合衆国の通貨「ドル(Dollar)」の名称として採用されました。

(かつてヤーヒモフで製造された硬貨(王立造幣局博物館にて)。)
王立造幣局博物館
ヤーヒモフの中心部に建つ王立造幣局博物館は、16世紀に実際に貨幣の鋳造が行われていた王立造幣局の建物を利用した博物館です。
1520年に設けられたこの造幣局では、ヤーヒモフで採掘された銀を用いてヨアヒムスターラー銀貨をはじめとする貨幣が1671年まで製造されていました。
現在も地下には、銀を溶解するための炉や煙道の一部が保存されています。
館内では、ヤーヒモフの歴史をはじめ、銀鉱石の採掘方法や鉱山技術、貨幣の製造工程などが、模型や映像、実物資料を用いて分かりやすく紹介されています。
また、実際に鋳造されたヨアヒムスターラー銀貨や貨幣製造に使用された道具も展示されており、当時の鉱山都市としての繁栄を感じることができます。
展示は銀採掘だけでなく、ピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)の採掘、マリ・キュリーらによるラジウムの発見、第二次世界大戦後のウラン採掘などにも及んでいます。
ヤーヒモフが銀の町から放射線科学、そしてウラン採掘の歴史を担う町へと発展していく過程を、一つの博物館で体系的に学ぶことができる点が大きな特徴です。
展示は私の想像以上に充実しており、見学には意外と時間がかかりますので、ヤーヒモフを訪れる際は、ぜひ時間に余裕を持って見学することをおすすめします。

(王立造幣局博物館。かつてはここで実際に貨幣の鋳造が行われていました。)
ラジウムの発見、ウラン採掘と強制労働
次に、ラジウムの発見と、第二次世界大戦後に盛んになったウラン採掘及び関連する政治犯等による強制労働の歴史について解説します。
ラジウムの発見とウラン採掘の歴史
ヤーヒモフでは、16世紀の銀採掘以来、銀鉱石とともにピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)が大量に産出されていました。
しかし、当時はその利用価値がほとんど知られておらず、銀を採掘する際の不要な鉱石として扱われていました。
19世紀末になると、ヤーヒモフ産のピッチブレンドが放射線研究の発展に大きく貢献します。
1898年、マリ・キュリーとピエール・キュリーは、この鉱石からラジウムを発見し、放射線科学の発展に大きな足跡を残しました。
その後、ラジウムは医学や科学研究など幅広い分野で利用されるようになり、ヤーヒモフは放射線利用の歴史においても重要な役割を果たす町となりました。
第二次世界大戦後には、核兵器開発や原子力利用の進展に伴い、ウランは戦略的に極めて重要な資源となりました。
ヤーヒモフ周辺でも本格的なウラン採掘が開始され、チェコスロバキア最大級のウラン鉱山地域として急速に開発が進められました。
採掘されたウラン鉱石の多くは旧ソ連へ送られ、その核開発計画を支える重要な資源となりました。
現在では採掘は終了し、多くの鉱山施設は閉鎖されていますが、坑道や鉱山遺構、収容所跡などが保存され、当時の歴史を伝える貴重な文化遺産となっています。

(マリ・キュリーのラジウム発見を解説する展示(王立造幣局博物館にて)。)
政治犯等による強制労働
第二次世界大戦後、チェコスロバキアでは1948年に共産党政権が成立し、核兵器開発を進める旧ソ連へのウラン供給が国家的な重要事業となりました。
これに伴い、1949年から1961年にかけて、ヤーヒモフ、ホルニー・スラフコフ、プシーブラム周辺には18か所の強制労働収容所が設けられ、約6万5千人の受刑者がウラン採掘に従事したとされています1)。
収容者の多くは政治犯であり、坑内での採掘や鉱石の運搬など過酷な労働を強いられました。
当時は放射線防護や労働安全対策も十分ではなく、厳しい労働環境や劣悪な生活環境により、約4,500人が命を落としたとする推計もあります2)。
1960年代初頭までに強制労働収容所は順次閉鎖され、政治犯によるウラン採掘は終了しましたが、ウラン採掘そのものはその後も継続され、ヤーヒモフはチェコスロバキアを代表するウラン鉱山地域として発展しました。
現在では、収容所跡や記念碑が保存されるとともに、後述する「ヤーヒモフの地獄(Jáchymovské peklo)」と呼ばれる学習トレイルが整備され、当時の歴史を後世に伝えています。
私も実際にこのトレイルを歩きましたが、現在は静かな森林となっている一方で、各所に残る遺構や解説板から、かつてこの地で起きた出来事を知ることができました。
1) Bauer, Z. (2019). Jáchymov Camps – Hell where it was Freezing: The Prison Camps in the Jáchymov Region and Exemplary Shaming Punishments for Objectors to Uranium Ore Mining. NZB.
2) Fialová, D. (2025). In sickness and in health: ‘dissonant’ history, heritage, and tourism in the Czech spa town of Jáchymov. Journal of Heritage Tourism.

(当時の強制収容所を再現した展示(王立造幣局博物館にて)。)
採掘終了後の環境修復について
次に、ウランなど、一連の鉱石採掘終了後の鉱山廃石堆積場の様子と、環境修復の取組について見ていきましょう。
鉱山施設と鉱山廃石堆積場
ヤーヒモフ周辺には、現在もウラン採掘の歴史を伝える鉱山施設や遺構が点在しています。
後述する、私が歩いた学習トレイル「ヤーヒモフの地獄」では、スヴォルノスト坑、エドゥアルト坑やロヴノスト坑周辺に当時の建物や坑口跡が残されており、説明板には操業当時の航空写真や施設の様子が紹介されています。
エリアーシュ谷(エドゥアルト坑、ロヴノスト坑、アダム坑、エヴァ坑など)では、ウラン採掘に伴い約147万m³の鉱山廃石が約6.6haにわたって堆積したとされています3)。
しかし、採掘終了後に鉱山廃石堆積場は整形・緑化され、現在では自然の地形に溶け込んでいます。
そこがかつて鉱山廃石堆積場であったことは、後日インターネットで調べて分かりましたが、私が訪れた際には分かりませんでした。
一方、私が5月に訪れたバート・シュレーマでは、ウラン採掘に伴って42か所、総容量約4,500万m³もの鉱山廃石堆積場が築かれました。4)
ヤーヒモフとバート・シュレーマを比較すると、両地域とも環境修復が進められているものの、その規模や現在の景観には大きな違いがあることを実感しました。
3) Palfi, Eliáš Valley
https://www.palfi.cz/en/articles/sights-and-attractions-in-jachymov/places-of-interest/elias-valley.html
4) Wismut GmbH, UNESCO World Heritage – Erzgebirge/Krušnohoří Mining Region
https://www.wismut.de/en/locations/experience-wismut/unesco-world-heritage
環境修復の考え方と実施主体
ヤーヒモフでは、ウラン採掘終了後、坑道の閉鎖、鉱山廃石堆積場の安定化、旧選鉱施設跡地の管理など、長期的な環境修復が進められてきました。
山間部の谷沿いに鉱山が点在する地形的特徴から、大規模な地形改変を行うというよりも、既存の地形を活かしながら安全性を確保し、自然景観との調和を図る修復が進められています。
これらの環境修復は、チェコの国営企業DIAMOが主体となって実施しています。
DIAMOは、旧ウラン鉱山や鉱山廃石堆積場の維持管理に加え、地下水・排水の管理、放射線モニタリングなどを継続しており、採掘終了後も長期にわたる環境管理を担っています。
このような体制は、ドイツで旧Wismut鉱山の環境修復を担うWismut GmbHとよく似ています。
一方で、実際に現地を訪れると、廃石等の量がバート・シュレーマと比べて少ないことも理由に挙げられると思いますが、ヤーヒモフでは修復された跡地が自然景観に溶け込み、かつて大規模なウラン採掘が行われていたことを意識させないほど、周囲の環境と調和していることが印象的でした。
現在の土地利用
環境修復が進んだ現在、ヤーヒモフの旧鉱山跡地は、スポーツ、観光、歴史教育など、多様な用途で活用されています。
「ヤーヒモフの地獄」学習トレイルでは、スヴォルノスト坑、エドゥアルト坑、ロヴノスト坑などを巡りながら、各所に残された遺構や説明板を通して、ウラン採掘と政治犯による強制労働の歴史を学ぶことができます。
また、エドゥアルト坑周辺では、かつて鉱山施設や鉱山廃石堆積場があった場所が整備され、現在ではバイアスロン競技場やクロスカントリースキーコースなどのスポーツ施設として利用されています。5)
ヤーヒモフでは、環境修復や継続的な監視によって安全性を確保するだけでなく、その土地の歴史や文化を未来へ伝え、鉱山跡地を活かした土地利用によって新たな地域の価値を創出しています。
5) Eliáš Valley(Palfi)
https://www.palfi.cz/en/articles/sights-and-attractions-in-jachymov/places-of-interest/elias-valley.html

(学習トレイル(ラドン・トレイル)について解説するパネル。)
ラドン水を利用した療養
次に、ヤーヒモフの代名詞とも言える、鉱山から湧き出すラドンを豊富に含む鉱山水(ラドン水)を活用した療養について、私の体験も含めて解説していきたいと思います。
ラドン療養地としての発展
1898年、マリー・キュリー夫妻らによってラジウムが発見されると、ヤーヒモフの鉱山から湧き出す温泉水にラドンが含まれていることが判明しました。
これを受けて、1906年には世界初のラドン浴場が開設され、ヤーヒモフは世界でも最も古いラドン療養地の一つとして発展しました。
その後、1911年には本格的なラドン療養施設であるラジウム療養研究所(現在のアグリコラ・スパ・センター)が完成し、関節リウマチや変形性関節症、神経疾患などに対する温泉療法が行われました。
現在もラドン温泉を利用した医療・保養施設が営業を続けており、ヤーヒモフは放射線を医療に活用してきた町として知られています。

(当時のラドン治療の様子について解説する展示(王立造幣局博物館にて)。)
スヴォルノスト鉱山と鉱山水
後述するスヴォルノスト鉱山は、1518年に銀鉱山として開坑された、ヨーロッパで現在も操業を続ける最も古い鉱山の一つです。
その後、銀の採掘からコバルト、ビスマス、ウランへと採掘対象を変えながら、500年以上にわたってヤーヒモフの発展を支えてきました。
現在では鉱石の採掘は行われていませんが、坑内から湧き出るラドンを豊富に含んだ鉱山水を採取するために維持管理されています。
この鉱山水は現在もヤーヒモフの温泉施設へ送られ、ラドン温泉療法に利用されています。
ラジウム・パレス
私も宿泊しましたが、ラジウム・パレス(Radium Palace)は、1912年に開業したヤーヒモフを代表する温泉ホテルです。
ラドン療法への関心の高まりを背景に建設され、当時は全室に温水・冷水、電話などの最新設備を備えた、ヨーロッパで最も豪華なホテルの一つに数えられていました。
館内では、スヴォルノスト鉱山から供給されるラドンを含む鉱山水を利用した入浴療法が現在でも行われており、私が宿泊した際も、治療を受けにきたと思われる多くの人々が滞在していました。
また、多くの政治家や文化人が滞在し、1925年にはラジウムの発見者であるマリー・キュリーも宿泊して、スヴォルノスト鉱山や温泉施設を視察したことが知られています。
創建当時の優雅な外観や内装は、ヤーヒモフが世界有数のラドン療養地として栄えた時代の面影を今に伝えています。

(まるで宮殿のようなラジウム・パレスのファサード。)
アストリア見学坑道
アストリア見学坑道は、この後説明するアグリコラ温泉施設の道をはさんで反対側にあって、ヤーヒモフの鉱山やラドン療養について学ぶことができる体験型の展示施設です。
現在も稼働しているスヴォルノスト鉱山の坑道を忠実に再現した空間を歩きながら、ヤーヒモフの鉱業の歴史やラドン温泉の仕組みを学ぶことができます。
坑内には、坑道の支保工や採掘跡、鉱山機械、立坑設備、ウラン鉱脈、ラドンを含む鉱山水の配管などが再現されており、実際の鉱山内部の雰囲気を体感できます。
見学には事前に予約が必要ですが、学習トレイルを歩く前に見学すると、現地の歴史的背景への理解がより深まると思います。

(アストリア見学坑道内部。スヴォルノスト鉱山の坑道が再現されています。)
アグリコラ温泉施設
アグリコラ温泉施設は、1911年に「帝国・王立ラジウム療養研究所」として開設された、世界初の本格的なラジウム療養施設です。
1906年に世界初のラドン浴場が開設された後、増加する療養客に対応するために建設され、ヤーヒモフが世界的なラドン療養地として発展する礎となりました。
当時の施設には、ラドンを含む鉱山水を利用した浴室のほか、研究室や診療設備が整えられ、放射線を利用した医療と研究の中心的な役割を担っていました。
その後も増改築を経ながら利用され続け、現在は「アグリコラ温泉施設」として、プールやサウナ、フィットネス施設などを備えた総合的なウェルネス施設となっています。
一方で、現在も医療部門は維持されており、スヴォルノスト鉱山から供給されるラドンを含む鉱山水を用いたラドン浴が、医師の診察・管理のもとで行われています。
なお、私が訪れた一般利用者向けのプールやサウナは通常のアクアセンターであり、ラドン水を用いた治療浴とは区別されています。
2026年でその開設から115年が経過しますが、ヤーヒモフにおけるラドン療養の歴史と伝統を現在へ受け継ぐ重要な存在となっています。

(アグリコラ温泉施設。名前は当地で鉱山等の研究を行ったゲオルギウス・アグリコラ(1494–1555)に由来。)
学習トレイル(ラドン・トレイル)について
次に、現地に整備された学習トレイルのうち、ラドン・トレイルという散策路を私が実際に歩いて感じたみどころなどについて書いてみました。
学習トレイル(ラドン・トレイル)とは
ヤーヒモフ周辺には、鉱山やラドン療養の歴史を学ぶことができる複数の学習トレイルが整備されていて、その代表的なものの一つが、「ラドン・トレイル(Radon Trail)」です。
ラドン・トレイルは、王立造幣局博物館などがあるヤーヒモフの歴史地区から、ラジウム・パレスやアグリコラ温泉施設が建ち並ぶ療養地区へと続く約3kmの学習トレイルです。
ルート沿いには説明板が設置されており、ラドン温泉の歴史やスヴォルノスト鉱山、鉱山水の供給システムなどについて学ぶことができます。
ルートは比較的短く、かつ平坦なので、1時間程度で歩くことができます。
時間がない方や、長距離の散策に自信がない方にはおすすめのトレイルです。
みどころ① 聖ヨアヒム教会
聖ヨアヒム教会ヤーヒモフの中心部に、1534~1540年に建設された教会です。
鉱山都市の人口増加に伴い、それまで教区教会として使われていた諸聖人病院教会では手狭になったことから、新たな町の中心的な教会として建設されました。
教会の名称となった「聖ヨアヒム」は、聖母マリアの父とされる聖人です。
ヤーヒモフのドイツ語名「ザンクト・ヨアヒムスタール(聖ヨアヒムの谷)」もこの聖人に由来しており、教会は町の名前と歴史を象徴する存在でもあります。
16世紀には宗教改革の影響を受け、教会は長くプロテスタントの教会として使用されましたが、その後、対抗宗教改革によってカトリック教会となりました。
1873年の大火で大きな被害を受け、現在の姿はその後の再建によるものですが、鉱山都市ヤーヒモフの繁栄を伝える重要な歴史的建造物となっています。

(町の中心に立つ聖ヨアヒム教会。訪問当日は内部に入ることはできませんでした。)
みどころ② スヴォルノスト鉱山
スヴォルノスト鉱山は、ラドン・トレイルの始点がある、町の中心部にあって、1518年に銀鉱山として開坑した、チェコで最も古く、現在も操業を続ける鉱山です。
銀、コバルト、ビスマス、ウランなどを産出しながら、500年以上に渡ってヤーヒモフの発展を支えてきました。
1864年には地下約500mでラドンを豊富に含む鉱山水が湧出していることが分かり、その後の1898年のラジウム発見を契機に、この鉱山水の医学的価値が注目され、1906年には世界初のラドン浴場が開設されることとなりました。
現在では鉱石の採掘は行われていませんが、鉱山はラドンを含む鉱山水をラジウム・パレス、アグリコラ温泉施設、ベホウネク療養所などへ供給し、現在もラドン療養に利用されています。

(スヴォルノスト鉱山)
みどころ③ ヨゼフ坑
ラドン・トレイルの中間地点あたりにあるヨゼフ坑は、1520年に鉱山事業者フーバーによって「ヘレナ・フーバー坑」として開坑した、ヤーヒモフを代表する鉱山の一つです。
1764年にはヤーヒモフ市の所有となり、1779年に皇帝ヨーゼフ2世が視察したことを記念して、「ヨゼフ坑」へ改称されました。
19世紀にはピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)の採掘も始まりましたが、1901年にスヴォルノスト坑で大量の鉱山水が湧出した影響で浸水し、閉鎖されました。
その後、第二次世界大戦後のウラン採掘の開始に伴って再び利用されるようになり、坑道の整備や立坑の深部化が行われました。
1962年にはラドンを豊富に含む鉱山水が発見され、1964年以降はスヴォルノスト坑の換気立坑として利用されるとともに、ラドンを含む鉱山水の採取施設として現在も重要な役割を担っています。
現在見られる高さ約15mの鉄製立坑櫓は1982~1987年の改修時に建設されたものです。

(ヨゼフ坑)
みどころ④ 諸聖人病院教会
諸聖人病院教会は、1520年に建設されたヤーヒモフ最古の建造物であり、西エルツ山地に現存する最古級の木骨造教会の一つです。
当初は町の教区教会として建設されましたが、1534年に聖ヨアヒム教会が完成すると、その役割を譲り、鉱山労働者のための病院(1530年建設)と屋根付きの通路で結ばれ、病院教会として利用されるようになりました。
また、周囲には墓地が整備され、王立造幣局長や鉱山監督、鉱山経営者など、16世紀のヤーヒモフを支えた人々が埋葬されています。
病院は1955年の火災で焼失し、その後取り壊されましたが、教会は1992~1993年に修復されました。
訪問時は、内部に入ることはできませんでしたが、16世紀の墓碑や宗教美術が保存されているほか、展示会やコンサートなども時々開催されているようでした。

(諸聖人病院教会)
学習トレイル(ヤーヒモフの地獄)について
次に、私が歩いたもう一つの学習トレイル、「ヤーヒモフの地獄」について、そのみどころなどについて書いてみました。
学習トレイル(ヤーヒモフの地獄)とは
学習トレイル「ヤーヒモフの地獄」は、第二次世界大戦後のウラン採掘と政治犯による強制労働の歴史等を学ぶことができる散策路です。
全長約8.5kmで、聖ヨアヒム教会前を起点に、旧鉱山や強制収容所跡などを巡りながら、ウラン採掘と強制労働の歴史を現地で学ぶことができます。
ルート沿いには説明板や記念碑が設置されており、当時の写真などを交えながら、共産主義政権下で政治犯が置かれた過酷な労働環境や、ウラン採掘の実態が紹介されています。
また、周辺の自然、環境修復についての解説も含まれており、ヤーヒモフの多面的な歴史を理解できるよう工夫されています。
私はこのトレイルを約4〜5時間かけて歩きましたが、山道やアップダウンも多いため、歩きやすい靴で時間に余裕を持って訪れることをおすすめします。
以下に、学習トレイルのみどころを示しましたが、聖ヨアヒム教会とスヴォルノスト鉱山については、ヤーヒモフの地獄のコース上にもありますが、既にラドン・トレイルの中で触れましたので、ここでは割愛します。
みどころ① 第一坑道
第一坑道は、エヴァンゲリスタ鉱脈(16世紀には銀鉱石の採掘が行われていた鉱脈)に残るウラン鉱床の探査を目的として1952年に建設された坑道です。
建設にはスヴォルノスト収容所に収容されていた政治犯が動員され、坑道は有刺鉄線で囲まれた通路によって収容所と結ばれていました。
1952年のわずか2か月間で約230mが掘削され、その後1957年まで探査・採掘に利用されました。
私が訪れた際には坑内を見学することはできませんでしたが、現在、この坑道は一般公開されており、16世紀の銀鉱山跡と20世紀のウラン採掘坑道を同時に見学できる貴重な施設となっています。
また、採鉱機械や坑内設備に加え、政治犯による強制労働に関する展示も行われており、ヤーヒモフの鉱業史と共産主義時代の歴史をあわせて学ぶことができます。

(第一坑道)
みどころ② スヴォルノスト強制収容所・恐怖の階段(マウトハウゼン階段)
スヴォルノスト収容所は、1949年に旧ドイツ軍捕虜収容所を転用して設置された政治犯収容所です。
収容者は主に共産主義政権に反対した政治犯で、最盛期には約600人が収容されていました。
彼らはスヴォルノスト坑や第一坑道などでウラン採掘や坑道掘削に従事し、過酷な強制労働を強いられました。
収容所と坑道を結んでいたのが、現在「恐怖の階段(マウトハウゼン階段)」と呼ばれる階段です。
この名称は正式名称ではなく、収容者たちがオーストリア・マウトハウゼン強制収容所の「死の階段」を連想して付けた通称とされています。
有刺鉄線に囲まれた通路には監視塔が設けられ、政治犯たちは毎日この階段を上り下りしながら坑内へ向かいました。
現在、収容所の建物は残っていませんが、バラックの基礎の遺構が残されているほか、監視塔や有刺鉄線の一部が復元され、当時の様子を伝えています。

(恐怖の階段(マウトハウゼン階段))
みどころ③ 旧市営池
旧市営池は、1552年にヤーヒモフ川をせき止めて造られた人工の貯水池です。
当時の鉱山では、坑内排水や鉱石の選鉱設備を動かすために大量の水が必要であり、市営池はその重要な水源として整備されました。
しかし、この池の堤防は1593年と1981年の2度にわたって決壊していて、1593年の決壊では、市街地に大きな被害をもたらしたものの、その後堤防は再建されました。
1930年には池の周辺が整備され、市営の森林プールやボート乗り場、レストランが設けられ、市民の憩いの場として親しまれるようになりました。
しかし、1981年の雪解け時に再び堤防が決壊すると、洪水がヤーヒモフ市街地を襲い、大きな被害をもたらしました。
その後、池は再建されることなく姿を消し、現在は堤防や地形のみが当時の面影を残しています。
私が訪れた際には、一見すると静かな森の中の草地にしか見えませんでしたが、説明板を読むことで、ここが重要な水利施設であったことを知りました。
ヤーヒモフの歴史は、鉱山そのものだけでなく、それを支えたこうしたインフラによって築かれていたことを教えてくれる場所です。

(旧市営池。水は溜まっていないようでした。)
みどころ④ ニコライ強制収容所
ニコライ強制収容所は、1950年に開設されたヤーヒモフ地域最大規模の政治犯収容所です。
最盛期には約800~1,000人の政治犯が収容され、周辺のウラン鉱山で採掘や坑道掘削などの過酷な強制労働に従事しました。
1950年代半ば以降、政治情勢の変化とともに収容者数は減少し、1960年に閉鎖されました。
その後、施設の大部分は取り壊され、現在では基礎や一部の遺構が残るのみとなっています。
現在、ニコライ強制収容所跡は学習トレイルの見どころの一つとなってはいますが、鬱蒼とした森林に囲まれており、その場所を探すのにも一苦労でしたし、観光向けに整備されているとは言い難い状況でした。

(ニコライ強制収容所跡。森の中に廃墟として残っていました。)
みどころ⑤ ヤーヒモフの森
現在のヤーヒモフ周辺には、深い森と穏やかな草原が広がり、ハイキングやクロスカントリースキーを楽しめる自然豊かな景観が広がっています。
しかし、この静かな森は、数百年にわたる鉱山開発と、その後の環境修復によって形成された景観でもあります。
16世紀に銀鉱山が開発されると、坑道を支える坑木や鉱石を精錬するための薪・木炭を確保する目的で、大規模な森林伐採が行われました。
その後、ウラン採掘の時代には坑道や鉱山施設の建設、鉱山廃石堆積場の造成などによって周辺の森林はさらに改変されました。
しかし、採掘終了後は坑道の閉鎖や鉱山廃石堆積場の安定化、植林などの長期的な環境修復が進められ、現在では多くの場所が周囲の自然景観と調和しています。
「ヤーヒモフの地獄」学習トレイル沿いには、現在は静かな森が広がっていますが、この場所は長年にわたる環境修復の成果であると同時に、鉱山開発、環境修復、そして歴史の継承という三つの側面を併せ持つ貴重な空間になっています。

(「ヤーヒモフの森」に関する説明看板が設置してあった場所周辺の森の様子。植林された針葉樹のような植生でした。)
みどころ⑥ エドゥアルト鉱山
エドゥアルト鉱山は、第二次世界大戦後のウラン採掘を支えたヤーヒモフ地域の主要な鉱山の一つで、多くの政治犯や鉱山労働者が採掘や坑道掘削に従事した場所でもあります。
採掘の終了後は、坑道の閉鎖や鉱山廃石堆積場の安定化、植生の回復など、長期的な環境修復が進められました。
エドゥアルト鉱山を含むエリアーシュ谷では、約147万m³の鉱山廃石が約6.6haにわたって堆積していましたが、現在では整形・緑化が行われ、周囲の自然景観と調和しています。
一見しただけでは分かりませんでしたが、説明版によると、かつて鉱山施設や鉱山廃石堆積場があった場所は、現在ではバイアスロン競技場やクロスカントリースキーコースとして利用されているようでした。

(エドゥアルド鉱山跡地。この周辺に大きな広場があり、バイアスロン競技場などとして利用されているようでした。)
みどころ⑦ ハインツ池
ハインツ池は、1540年頃に建設された人工の貯水池で、ハインツ池は旧市営池などとともに、鉱山機械や選鉱設備を動かすための水を供給していました。
現在でも、池から延びる水路や石積みの暗渠の一部が残されています。
私が訪れた際には、とても透明度が高く、小さな魚がたくさん泳いでいて、人もあまり訪れないような深く静かな森の中で、とても穏やかな景観を形作っていました。

(ハインツ池。こちらには透明度も高い綺麗な水が溜まっていました。)
まとめ
ヤーヒモフは、16世紀の銀鉱山の発見によって繁栄した鉱山都市であり、その後、18世紀末のピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)からのラジウムの発見、世界でも最も古いラドン療養地の一つとしての発展、第二次世界大戦後のウラン採掘、そして環境修復及びラドン療養地としての復活と、時に政治の影響も受けながら、また放射線とも深く関わってきました。
実際に町を歩いてみると、王立造幣局博物館やスヴォルノスト鉱山、ラジウム・パレスなど、16世紀から現在まで続く歴史を今なお感じることができます。
一方で、学習トレイルでは、政治犯による強制労働という冷戦時代の負の歴史にも触れることができ、この町が歩んできた光と影の両面を知ることができます。
エルツ山地の反対側に位置するドイツのバート・シュレーマとは、多くの共通点があります。
両地域とも銀などの鉱石の採掘によって発展し、冷戦時代の負の歴史を経て、現在ではラドン温泉を利用した保養地として知られています。
また、鉱山博物館や学習トレイルが整備され、鉱山の歴史や環境修復について学ぶことができる点も共通しています。
一方で、両地域には大きな違いも感じました。
バート・シュレーマでは、巨大な鉱山廃石堆積場や大規模な環境修復工事によって、ウラン採掘の規模や環境修復の成果を目で見て実感することができます。
これに対し、ヤーヒモフでは鉱山廃石堆積場や旧鉱山施設の多くが自然景観に溶け込み、一見しただけでは大規模なウラン採掘が行われていたことはほとんど分かりません。
その一方で、学習トレイルや各地に残る収容所跡、記念碑などを通じて、政治犯による強制労働という冷戦時代の歴史を現地で学ぶことができる点や、医師の管理のもと、ラドンを明確な治療目的で利用されている点も、ヤーヒモフならではの大きな特徴といえるでしょう(この点はバート・ガシュタインと類似する点です)。
ヤーヒモフでは、放射線科学の発展、医療への利用、資源開発、環境修復、そして歴史の継承まで、多面的な視点から放射線との関わりを学ぶことができます。
放射線の利用や環境修復に関心のある方はもちろん、鉱山遺産や近代史に興味のある方にも、ぜひ訪れていただきたい場所です。
ちなみに、現在では、ヤーヒモフとバート・シュレーマは、バスと鉄道を乗り継いで約3時間で行き来することができます。
公共交通機関の本数はそれほど多くありませんが、時間に余裕がある方は、エルツ山地の両側に位置する二つの町をあわせて訪れてみるのもおすすめです。
本記事の英語版はこちらからご覧いただけます。
今回は以上となります。
ご覧いただき、ありがとうございました。

コメント